1945年(昭和20年)私の家族は、中国東北部・満州国奉天省(本渓県第四区田師付街大和町)に住んでいた。両親の庇護の下、ごく普通の平和な毎日を過ごしていた。
それが8月15日、終戦と同時に生活は一変した。治安が極度に悪くなり、外出できなくなった。略奪を防ぐため、窓と言う窓に板が打ちつけられた。泥棒が横行し、私たちが住んでいた部落も何軒か襲撃を受けた。私たちは恐怖におびえながら夜を明かすこともあった。
まもなく近所の人と列を組み、引き上げの逃避行をすることになった。中国人(その当時は満人と言った)に見つからないように、草をかき分けながら石ころの河原を歩いた。ある日、満人が土手に現れ、私たちに向かって石を投げてきた。石が頭や肩に降ってきたが、私たちは息を殺し草むらに身を沈め、彼らの去るのをひたすら待った。額から血を流している人、うめいている人、その時のことを思い出し、しばらく私は夢にうなされた。
どのくらい歩いたのか記憶にないが、母は2歳の弟を背中に、7歳の兄の手を引いていた。父は全財産の入ったリュックの上に4歳の私を乗せていた。引揚船の港に着いた時、お手伝いのハッチャンとはぐれてしまった。一緒につれて帰れなかったことを父は悔やんでいたが、彼女は別の便で帰国して、奈良県の方で幸せな結婚をしていた。その後再会して、父は彼女と彼女の母に泣いて侘びていた。ハッチャンは断髪し、顔に炭を塗って男の姿をして帰って来たと聞いた。
舞鶴に上陸し、私達は無蓋車(屋根の無い貨車)で郷里に向かった。
ようやく明るくなってきた早朝、全身雨でずぶぬれになり、玄関に立った私達を、「幽霊かと思った」と祖母は何度もくり返した。リュックサックも帰る途中略奪され、文字通り無一物から私たち一家の戦後が始まった。
何が無くても逃げ回ったり、おびえることの無い生活は どんなに幸せでしょうか。
その後 戦争放棄と言う、世界に誇れる憲法が出来たことを知った。当時国民は、喜びそして感動したと、子供心にも十分その感動は理解できた。
あれから60年、あの希望と輝きに満ちた日本はどこへ行ったのだろう。
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